30歳ごろから走りはじめ。
42.195㎞
フルマラソン。
初めて走った次の日、人生で初めて味わった尋常でない筋肉中。
自転車を買いトライアスロンにも参加して楽しく充実した日が続いた。
30歳代。
そんな日が何時までも続くと思っていた。
40歳代に入って、職場も変わって、冬はランニング夏は自転車、そんな生活がアタリマエだった。
44歳の春、小笠掛川マラソンを申し込んで、自己ベストをねらっていた。
小笠掛川マラソンの五日前、佐久間小学校の体育館で空手の練習中にクモ膜下出血の症状が出た。
佐久間病院に運ばれてCTを取って先生が
「出血してます」
と言った。
日没後のタメ、ドクターヘリは飛ばない、救急車での搬送だった。
搬送途中で記憶は無くなっている。
44歳の春、いつもは自転車でロードにでるのだが家で静かにしていた。
やることがない。
そんな春、佐久間中学校の同級生に会い同窓会の話が始まった。
佐久間のふっさの家に行き母親にふっさの行方を聴いた。
そしたら、この夏に亡くなったと言っていた。
岐阜のビジネスホテルで朝亡くなっていた。と。
もう、走ることはヤメにする。
そう思ったけど、朝の散歩は少しずつ続けた。
ヤメタと思っていたランニングも少しづつ走りはじめた。
次の冬、浜松マラソンが始まった。
大会は、もう行かない。
そう思ったが、第一回浜松マラソンに参加した。
浜松マラソンno1
浜松マラソンno2
あれから10年
喉元過ぎれば熱さ忘れる
の如く今は普通に走っている。
10年の間に
ウルトラマラソンを走る仲間に出会い、100㎞マラソンも走った。
富士登山競争も誘ってくれた人がいて経験することができた。
このまま60歳70歳まで走っていたい。
佐久間町が浜松市になって、同窓会をはじめてマラソンを再会した。
同窓会をやろうと提案し、多くの同級生の居場所を探し懐かしく話した人もいるが、中には早くに亡くなった人もいた。
自分がクモ膜下出血になって佐久間病院のベッドに横になった時、もう日が暮れてドクターヘリは飛ばない。
「俺は死ぬのかナ~」
っと思った事がある。
その年、同窓会の話をしてふっさの死を聴いて、次の年の正月第一回佐久間中学校同窓会は始まった。
同窓会は45歳50歳55歳と続いた。
今私は生きている。生きているから出来る事はやろうと思っている。
同窓会を開いて、昔同じ時期に中学校時代を過ごした小学校時代を過ごした仲間を思い出すのは供養になると思う。
今を生きている者は一所懸命に生きることだ。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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