忍者ブログ
平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7
この本の作家の中で、私の思がある作家は
椋鳩十である。
本の中には「大造じさんとガン」「あじさい」がある。
この本にはなかったが、私は「マヤの一生」この本が心に残ってる。
やはり戦争は、よくない。人間ばかりか動物までも殺してしまう。
椋鳩十は長野県南信州「喬木村」の出身だ。
そして、その人は遠山郷へよく通っていたそうだ。
遠山の、ある旅館は椋鳩十の晩年の写真がある。遠山に残した
「遠山郷は星の美しい里、河の美しい里、人の心の美し里である」
そんな詩を残してある。その人の本には水窪の青崩峠の事も書てあった。山を愛した作家である。
その人は、喬木村を出て東京で勉強し、最後は鹿児島県に、そして喬木村に里帰りして同窓会に参加したときしらくもと出会う。
しらくもは、学生の時には目立たない存在だったが、ある時、ある本を読んで感動して人生が変わったそうだ。そして書いた言葉が
そして「感動」し「笑」「夢」を見ることができるのは「人間」だけである。
そう言ってる。
人は、互いに影響しあって生きている。
仏間に先祖の遺影がある。親から言われた言葉、私は見たこともない先祖、受け継がれている。
これは洗脳かもしれない。洗脳のとけない自分は、ここで暮らすしかない(^^)/

拍手[4回]

PR
三井ショッピングパークららぽーと磐田の本屋で出合った本「もう一度読みたい教科書の泣ける名作」を読んだ。
目次には
「ごんぎつね」新美南吉「注文の多い料理店」宮沢賢治「泰三じいさんとガン」椋鳩十「かわそうなぞう」土屋由枝雄「やまなし」宮沢賢治「モチモチの木」斎藤隆介「手袋を買いに」新美南吉「百羽のツル」花岡大学「野ばら」小川美明「ちいちゃんのかげおくり」あまんきみこ「アジサイ」椋鳩十「きみならどうする」フランク・R・ストックタン 吉田甲子太訳「とびこみ」トルストイ 宮川やすえ訳「空に浮かぶ騎士」アンブローズ・ビアス 吉田甲子太郎訳「形」菊池寛「杜子春」芥川龍之介
と収録されているとう。
まずは。
「ごんぎつね」新美南吉
ごんぎつねのラストは、「ごん、おまえだったのか」・・・。火縄銃の青い煙が、まだ筒ぐちから細くでたました。
銃を落とした兵十、ガクッと首を落とすごんの最後、情景が頭に巡るようだった。
私が新美南吉を知ったのは、学校の道徳ではなかった。
終身教授禄の読書会が終わり。森信三先生の生誕の地が愛知県半田市にあると聞いたから。
名古屋ハーフマラソンに行った前日、武豊線で半田市に向かった。
そこは新見南吉記念館にあるということで、半田駅から走って向かった。
途中街を歩く人に場所を尋ねると
「南吉か~。」と言ってていねいに教えてくれた。
その時の動画↓↓↓
この本には、新見南吉が二十歳のころの作品「手袋を買いに」もあります。
狐の親子の話しです。
動物と人間の、仲良くやっていこうという話です。
私は去年、罠の免許を取得したけど、、、。もうやめようと思います。

拍手[3回]

順位
514人中/153位
51分48秒
久しぶりの10㎞、いつもは桜咲く陽気の中のランニングだが、今回は寒かった。
スタート前にはヤマップのスタートを押して走り始めた。
途中スマホがポケットから落ちたアクシデントもあった。それでも、ペースを乱さないようにゆっくり走る。
最後は、ヘロヘロだけどゴールまでたどり着くことができ良かった。
私の記録を振り返ると、1990年平成2年私30歳で初マラソンを、ここで走っている。
職場の先輩の紹介で走り始めた。その人を追いかけて走った。
記録は
44分40秒
あれから34年間、私は走って来た。
色々なことがあったけど、走ることができた。有難いことだ。
これからも走ることができるように、ゆっくりでも走ることを続けるようにしよう。

拍手[5回]

「やって見せ、言って聞かせて、 させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじ」
山本五十六
多くの職人の先輩がいる。左官だったり大工の職人だったり。
先日左官の人と仕事をした。
誉めたり、注意しても、してくれた。
誉めることにより、注意してくれることに、納得もした。
自分の今やれることは、職人が仕事をやりやすいように、今職人は何を要求しているのかいち早く感じ、材料や道具を素早く用意すること。
力仕事は一生懸命いやった。
そして、誉めてくれた。有難かった。
この山本五十六の言葉には続きがある。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で、見守って、信頼せねば、人は実らず」

また、教えてもらうほうも、任せられる信頼されるようにいしなければ。

拍手[3回]

この本は、佐久間のある所から頂いた本だ。
差後に寄贈○○○○とある。
この本は、ある人から進められた。鈴木健二さんの「気くばりのすすめ」その続編である。
そう、私は「気くばりのすすめ」は読んではいな。
しかし、この本は手に入ったので読んでみた。
自分というのは、この世の中で最も大切なものです。
自分がいなければ、何も存在しません。
でも他人がいなければ自分のこともよくわからなのも事実です。
それなら、他人も自分だと思えばいいのです。
他人だけでなく、動物も自然も自分だと思えば、よりいっそう心が豊かになります。
私がいう気くばりとは、人間としてこうすべきであるという他人に対する道徳律ではなくて、人間が生きていくための常識であると強調する理由はここにあります。
原文ママ
本文の最初のほうに、気くばりのすすめで書いたことへの、お叱りの手紙のことが書てあった。視覚障碍者への気くばりの事についての専門家から批判めいたアドバイスだった。
考え方の違いは、誰でもある。
しかし、鈴木健二さんは丁寧に説明して文章を綴っていた。
こんな素晴らし著者にも、批判めいたことを語る人がいるのだと、感じた一説だった。
「好意の1対2対7の法則」というのがある。
約一割の人は友好的でな人、約二割の人は友好的は人、残りの七割の人は批判もしないし反発もない。
鈴木健二さんにも一割の反発があるのか???
現在95歳の鈴木健二さん、ユーチューブで検査してみた。
五年前の動画が出てきました。流石元アナウンサー90歳でも素晴らしくしっかりしてる。きくばりアナウンサー。
説得力、、、参考にしなければ。。。
本の最後に、大学を卒業する最後自分で書いた文章が記載したあった。そして、そこに書いた言葉を今も貫ていると書いて筆をおている。
貫く。世の中を見ていると、自分の口からはいた言葉を過去の事と忘れてしまった人が数多く
いる。
貫く

いつまで走れるかわからないが、やらるだけ頑張りたい。
貫きたい。。。

拍手[1回]

本当は前日に静岡市に入りマラソンフェスタに顔を出し、と思ったけど。
まさかの地元自治の会議が前日の9日夜に、泣く泣く、それに参加して、朝早くからの参加となった。
愛野駅を5時55分の電車で行けば間に合う。私は家を3時30分に車で出発した。
愛野駅から約一時間、電車に揺られ、静岡駅に、ランナーの流れに乗って集合場所へ。
ボラの人に、お願いし、写真撮影
ココの大会、規則で仮想禁止・タスキも禁止とか。走るときは外して走りました(笑)
私はゼッケンF〇〇〇〇最終のほうからのスタートだ。ユックリ走るには丁度いい。目標は完走
スタートラインを越えてランナーの流れはスムーズに流れだす。
ゆっくりゆっくり歩みを進める。
折り返しの流れ、走ってくる智さん発見!!、早い。。。
追いつけるかも、とペースを上げるが。折り返し地点ははるか向こう。
すぐに諦める。
富士川の橋を渡ると奇麗な雪化粧をした富士山が、その姿が私の折れそうな心を支えてくれる。
しばらく走り喉の渇きを感じスポーツドリンクをエイド毎に口にするように心がける。
塩分濃度減少で熱中症という苦い経験は二度としたくはない。
ハーフを超え、徐々に足に違和感が、だましだまし進む。
30km地点か。見覚えがあるパンダが。
写真を撮って、パワーを注入
残り7,195㎞は、何時歩こうかと思ってた。
沿道の「足の痛い人」の声には、思わず手を挙げた。
ここを走っている人は、みな痛いのだ。。。と思った。
やっと訪れた、ゴールの瞬間、ガッツポーズで、と思っていたが。
計測マットを超え、隅のほうで、今まで走って来た方向に頭を下げた。


アリガトウ。静岡マラソン。
アリガトウ。今までの自分

拍手[5回]

宮崎伸治
1063年広島県生まれ。青山学院大学卒業後、英シェフィール大学大学院言語学研究科修了。大学職員、英会話講師を経て、出版翻訳家に、著訳書は60冊、英語・翻訳関係の23種類を含む、133種類の資格保持。今から8年前、出版業界から足を洗う。
原文ママ

出版翻訳家の苦悩と悲惨な事実を書いてありました。
お金の問題だけでなく、精神的に大打撃を受け、出版翻訳家に見切りをつけた話です。
哀しい話だけど、せっかく身に着けた翻訳のスキル、まだ世に生かしてほしいと、私は思います。
ユーチューブを見ました。ひろゆきの言っていることも納得、

また、宮崎伸治さんのキャラクターが面白い。
真面目、その真面目さが顔に出ている。
頑張ってほしい。

拍手[1回]

南野苑生(みなみのそのお)
1948年生まれ。大学卒業後、広告代理店に勤務。バブル崩壊後、周囲の反対を押し切り、広告プランニング会社を設立するものの、13年で経営に行き詰まる。紆余曲折を経て、59歳のとき、妻とともに住み込みのマンション管理員に。以来3つのマンションに勤務。毎年、管理員室で寸暇を惜しんで書き綴ったのが本作品である。
原文ママ
団塊の世代の人のお話しである。
この本によると、バブルがはじけて、その後の行動で今がある。と、なる。
もしかしたら、ホームレス。になることもあったかもしれないと。
そんな苦労があったから・・・。
管理員の仕事、住民の苦情の対応、中には考えられない苦情もある。
また、上司にあたる人の密約、苦情の流れは、流れ流れて最下流の、末端の元へ流れつく。
その対応、大岡裁き、それができないときは離職する、を繰り返す。
59歳からの新しい仕事であるマンション管理員、その真実を綴った記録、哀しいことや面白こと、どんな仕事でも、遣り甲斐はある。
達成感は、自分が作り出すもの。
昨日は、佐久間から浜松駅を目指して走った。
10年くらい前になだろうか、団塊の世代の人と、一緒に、このコースを走ったことがある。
そのとき、もう一人の団塊の世代の人が、浜松駅南口の広場で、私たちを迎えてくれた。
ブルーシートの上には、缶ビールやツマミがあった。
団塊の世代
昭和20年代、戦後のベビーブームで世に誕生した人と達。
世代間ギャップ
若い人たちから見れば、64歳でも74歳でも、同じ年寄りに映るかもしれない。
しかし、昭和20年代といえばテレビもないし冷蔵庫もない。私たち昭和30年代とは違う。
しかし、今回読んだ、この話、人生の先輩の生き方、本で出合う団塊の世代、走る世界で出合う団塊の世代の人たち。
私の人生の羅針盤である。
アリガトウ。

拍手[1回]

毎年、一月の最終日曜日は「佐久間駅伝」だった。
そんな感じで、一年の月日は過ぎていった。
スタートがあればゴールがある。「おぎゃ~」と生まれてくれば、いつか必ず天に召される時が来る。
天竜の田口接骨医院、昨日の北遠駅伝のケアーのために訪れて、前から気になっていた座骨神経痛の治療を受けて出てきてスマホをのぞいたら着信
知り合いからだ、いつのように掛けなおして話した。相手の周りは騒がしそうだった。
「〇〇が亡くなった。突然死だ」
何が何だかわからなかった。グルグルぐるぐる。その人の言葉が私の頭の中でリピートしていた。
「え」「何」「なんで」
今年も当たり前のように、同じ道を二人で進もうと思っていたのに。
「人は産まれ、やがて死んでいく。それが人生だ」
映画最高の人生の見つけ方でのモーガン・フリーマンのセリフです。
「人は産まれ、やがて死んでいく」その間に何をやったのか。
その人は地元のために一生を尽くした人だと思った。私たちは大変お世話になった。

拍手[6回]

今年で72回目になる北遠駅伝大会、参加チーム20の中で
我が「さくまRC」は19位だった。
一区  0:19:17
二区  0:26:14
三区  0:21:38
四区  0:19:26
五区  0:22:31
六区  0:11:00
総合タイム 2:00:06
スタート
00:19:17
00:45:31
01:07:09
01:26:35
01:49:06
20:00:06
と、タスキは無事にゴールまで繋ぐことが出来た。
私の暮らすところは佐久間町である。佐久間駅伝は、五十回で終わりになった。
昭和の合併で「浦川町」「佐久間村」「山香村」「城西村」からできた「佐久間町」は50年前、四町村をタスキで繋ぐ駅伝を始めた。私が中学校三年生の頃のことだ。
それが
平成の合併で、人が減り、ボランティア確保が難しくなり、佐久間体育協会の苦渋の選択で終わりを迎えた。
私が63歳の夏のことだ。
人生も、駅伝も、スタートがあればゴールもある。
幼稚園で白血病になり小学校一年で世を去った人がいる。
知らない人はいる。その命があって、今のドナー登録の人を押し上げていることを。
今年で72回目になる北遠駅伝大会、私は骨髄バンクランナーズのTシャツを着て走ることにした。
それは、名古屋シティーマラソンで出会ったサバイバーランナーの出逢いから続いている。
多くの人に知ってもらいたい、骨髄バンクのこと。
初めて北遠駅伝に参加したときのこと、今とはコースは大部違った。
バイパスにあった役所前をスタートして西浦までの坂道だらけの一区だった。
私は何時も二区を走った。二区中継所でトップランナーはガッツポーズでタスキ渡しをしていた。
ところが二位三位とみな満身創痍で二区中継所にやってきた。一区での、あの激坂は多くのドラマが展開しただろうと想像する。
二区は西浦から池島(当時の三遠南信草木トンネル)まで、ここも激坂ばかりだった。曲がりくねった登坂を永遠と登って行った。やっと池島に中継地点が見えた。タスキ渡しだ。すると「三遠南信道をもう少し上ってコーンを廻ってきてください」と、審判の無常の声が耳に焼き付いた。車で走れば何も感じない坂が壁に見えた。
それに比べて三区は転がり落ちるような下り坂だった。
フジユニバンス水窪事業所で働いて、そこのチームで参加していた時は、永遠の二区走者だった。
当時の四区は、西浦から水窪平沢文具店、二区を走り終わった私は車にて応援に廻っていた。車を置いて大原から町中に行くと、応援はものすごい声援と熱気とに包まれていた。それは、多くの小中学生の声援だった。走る恩師を応援する子供たちの声援がこだましていた。
あれから30年
子どもたちは減り、声援は少なくなったけど、山間部ならではの温かさは今尚続いている。
最後の役員の挨拶で、もう少し参加メンバーを増やしたいとの言葉があった。
北遠駅伝は多い時で60チームとか言っていた。
多くのランナーよ。老いも若きも、北遠に集おう。
2025年は
2月23日(
だという。

拍手[6回]

プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
カウンター
カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
カウンター
忍者ブログ [PR]