<業績>
日比野寛(ひびのかん)は,マラソン校長として愛知県はもちろんのこと日本のスポ-ツ界にその名を刻んだ人物である。彼は第一高等学校(現 東京大学)2年生の時に,検診で胃腸病を発見された。以後彼は,健康のため「歩き方・姿勢」に気を配るようになり,健康が回復した後に国家の役人となった。
役人だった彼が,母校の第一中学校(現 旭丘高校)の校長に赴任したのが1899年(明治32)のことである。授業ボイコットなどの学校騒動の最中に望まれての人事であった。彼の教育理念は,「抱き鯉主義」(水に入って鯉になれ,鯉の泳ぎと共にこれをつかまえるように教育も生徒の中に入って指導せよ)と呼ばれた。彼が校長第1日目からテニスコ-トに立つと,次第に校内の騒動はなくなっていった。健康面で苦労した彼は,生徒に「病める者は医者へ行け,弱き者は歩け,健康な者は走れ,強壮な者は競走せよ」と呼び掛け,日本で最初にマラソンを本格的に教育界に導入した。「マラソン校長」のゆえんである。
17年間校長を勤めあげた彼は,退職後に日比野式走法(上体はまっすぐ腰の上,運動は手と足でする)を多くの人に広めていく。
<年譜>
1866年(慶応2) 中島郡大里村(現稲沢市)に織田文斎の三男として生まれる
1885年(明治18) 愛知県第一中学校(現 旭丘高校)から第一高等学校(現 東京大学)へ進学
1898年(明治31) 日比野家の養子となる
1899年(明治32) 愛知県第一中学校長になる
1911年(明治44) 日本最初の生徒長距離競走を実施
1950年(昭和25) 83歳で没
愛知エースネットHPから引用
数年前、私が「中日豊橋ハーフマラソン」に参加したころ、エリートランナーは「日比野賞中日マラソン大会」を走っていた。
そんな時にマラソン校長日比野先生の話を聞いたことがあるのだった。
日比野先生の偉業を忘れない様に始まったであろう「日比野賞中日マラソン大会」も第57回大会を最後に2009年その幕を閉じた。
そんな日比野寛の銅像が瑞穂公園陸上競技場の前にあるらしい。
何時か名古屋を訪ねた時には、是非とも訪ねて行きたいところだ。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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