佐久間町が平成の大合併で浜松市になった。
その佐久間町時代の町長が
K町長
昨日、平野さんから
K町長はたいへん立派な人でした。
とコメントを頂いたので今日はK町長の事について書こうと思います(*^^)v
其の一
K町長は私の父親と城西小学校で同級生だった(^0_0^)
私の父親は、昭和10年生まれ。
日本は戦争で大変な時にK町長と小学校時代を過ごしていたのだ。
話しでは、その時代、教科書は墨で塗られ何を書いてあるのか分からない状態だったそうだ。
戦中戦後、日本の大混乱の時代を生きてきた同級生だったのだ(^0_0^)
その当時、城西小学校と言えども多くの生徒がいた。
K町長は特別な人だったといいう。
成績優秀で城西では大富豪の御坊ちゃまだったそう。
(父親が言うには)
私の父親はというと、その他大勢の、その当時では当たり前にいた貧乏人の子供でした(^0_0^)
その他大勢の私の父親は、その後中学を卒業し横吹(よこぶき)に残り、家族を持った。
そこで私が誕生(*^。^*)
そのころの人は、食べていくのがやっとの生活。
仕事は山仕事が主だった。
父親は横吹(よこぶき)で城西の製材マルシに勤めていた。
K町長は中学校卒業後、浜松北高・東京の慶応大学。。。。
私もスクスク育ち、大きくなって行く(^O^)
そんな時、K町長は横吹(よこぶき)にあった家の山を売ったそうだ。
父親が、K町長は先見の目があるワイヤ。
と言ったのを覚えている。
私は新居町から29歳で佐久間に戻ってきて横吹(よこぶき)で半年暮らし
その後
半場に引っ越して来た。
父親は横吹(よこぶき)で真剣に取り組んでいたお茶の仕事を辞めた。
老後を悠々自適に過ごしていた父親は、佐久間ダム祭りを見にいた時。
K町長が居たのを知り、孫を連れてK町長と話しをしたそうだ。
貧乏人の子供、私の父親
大富豪の御坊ちゃま、K町長
K町長は浜松北高を卒業をして慶応大学で勉学に励んだ。
そして佐久間町で町長になり様々な事をしてくれた。
佐久間町は佐久間村・城西村・山香村・浦川町が合併してできた町だ。
佐久間町の長として大変な事があったとは思う。
私は城西村にある横吹(斜面集落)から佐久間町半場に越してきた。
小学校は城西小学校だ。
城西駅から小学校までは徒歩での通学だった。
K町長は城西地区の人だったが、その通学路は歩道が整備されることは無かった。
今回
浦川地区に住んでいた
平野さんが
K町長はたいへん立派な人でした。
とのコメントを頂いたのは
自分として感慨深かった。
私もそのように思います。
それに、もう一つ、大切な事をお知らせします。
本当に本当に大切なことは
今までの事ではなく
これからどうするかということ。
だと思います。
byしんしん
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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