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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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中部天竜駅~富山まで約25㎞のマラニック。佐久間村は1955(昭和30)年、電源開発株式会社よる佐久間ダム建設を受け入れた。そして、そこは佐久間村と浦川町・山香村・城西村の三つの村と一つの町が合併して佐久間町となった。私の生まれる五年前のことだ。
当時二万人以上の人口は、ダム工事の時には潤い。その後も様々なことで潤った。しかし、その町は昭和の時代が終わりを告げたころから陰りを見せかけた。そして平成になり当時の町長が平成の合併で浜松市との合併を決断した。
そして、その町長は東京に去ってった。
今日は、その佐久間ダムの湖岸約25㎞を走る仲間九名でユックリ走った。
コース上には真っ暗な長いトンネルが多く、走る人はチカチカライトやハンドライト・反射タスキなどで装備してきた。
砂を運ぶ大型トラック等も走り大変危ないいコースだ。トンネル内ではトラックが来ると壁に張り付き邪魔にならなように注意した。
砂取り場所を過ぎいると、車も少なく走りやすくなる。
ユックリだから話もできる。誰かが、お正月2日羽田での事故の話をした。
旅客機が着陸した直後、海上保安庁の航空機のと接触事故の話し。
日本航空516便の機長をはじめキャビンアテンダントは冷静にお客を誘導し全員無事に脱失したこと。
信じれない事故、だけど、事故は起こった。
様々な犠牲があり、今があること。
佐久間ダムでは約350万人が働き96名の殉職者がある。
今、この時代に生きている者は
巨人の肩に乗っている。
科学者ニュートンが書いた手紙の一説として広く知られる。
今の便利な生活は、今の平和な世の中は、先人達が積み重ねた結果なのである。
佐久間ダムで殉職した人がいる。そして労働基準法ができ安全対策が語られるようになった。
そんなことを思いながら。話ながら。天竜川リバーサイド約25kを走り切り。
湯の島温泉で汗を流し、食堂でユヅ味噌カツ定食を食べビールで乾杯したのだった。

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その場所は、平成の合併の前は「富山村」だった。その村は1955(昭和30)年佐久間ダムの建設により村の中心部が水没し佐久間ダム湖畔に残った村になった。そして、そこは離島を除いた「日本一のミニ村」として頑張っていた。
当時は(昭和の後期)竹下総理のふるさと創生一億円事業などで、このような地域でも様々なことが出来てた時代だった。
その村には温泉がある。(湯の島温泉)
離島を除いた「日本一のミニ村」
今日、そこに行こうと思ってる。中部天竜駅9時スタート

富山まで23k

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年の初め、職業日記シリーズ10冊セットを買った。
そして昨日に引き続き、今回は、この本を読んだ。
人の数だけ人生があり。職業の数だけ苦しみもあれば楽しみもある。
昨日は、自分が経験した職業だけど、今回は知らない世界、
東京の大手のタクシー会社で働いた,お話し。様々なお客さんの思い出話には泣かせる話しや笑わせる話し、怒れた話しが散りばめられている。
東日本大震災の時、仕事でタクシーを走らせてたそうだ、大都会東京での様子がリアルに感じたページであった。またソープ嬢を載せて世間話をして車を降りてからのサービス。同じサービス業の絆を感じた出来事だった('◇')ゞ

世の中に寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働く
私の母親からも聞いたことがある。
「小欲知足」
自分のための時間や主体性を犠牲にしてまで必要以上の収入を得ることはない。
そんな意味だそうだ。
私は趣味で走っている。普通の人から見れば、一銭にもならないのに如何して???と思うかもしれない。
馬鹿なのかもしれない。
ここに越してきて36年。もう63歳になった。
コロナが収まり静岡マラソンを申し込んだ。42,195k
苦しんだ最後に得るもの。何回も感じたとだけど、何も変わらない。残ったものは老いた身体だけだ。
良かったのか悪かったのか判断をくだす必要もない。
私は、そうやって走ってきた事実だけがあるだけだ。
「タクシードライバーぐるぐる日記」を読んだ。一人の男性の生き様の物語だった。
ブログは最後は、この本の「あとがき」をまねて自分の事を書いてしまった。
スイマセン
著者内田正治

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汗と涙の日記シリーズ「非正規介護職員ヨボヨボ日記」を読んだ。
実をいうと私も62歳で一年間、介護の仕事に就いたことがある。
いろいろと納得する言葉が実体験が、私の胸を突く。 だろうと、この本を手にした。
本の最初にある
「それでも私が続けるワケ。介護職員が立ち尽くす老いと死の現場」
そして私はページをめくった。
想像をはるかに超えた景色
著者はハローワークで紹介された介護職員養成講座で半年間通い終了証書をもらい介護職に就いたそうだ。
私は約20年前、母親が介護が必要になりそうなころ、通信のNHK学園の社会福祉学科を一年間勉強し続け介護福祉の免許に挑戦しまぐれで合格した。
その次の年の年末、母親は家の近くの特養に入所した。
ちょうど社会福祉学科で一週間実技研修に通った施設だった。
そこで11年間お世話になった母親は地元のお祭りの時に危篤の知らせを聞き亡くなった。
そんな母親を見て感じて、62歳最後のチャンスだと思い。介護の仕事に就いた。
20年前とは、想像を超えた世界を見た。実習と現場とに違いも。
私の母親は、認知症で、家族で行方不明になった母親を探し回ったことが幾度もある。
施設に入って、すごく助かったのを、ほっとしたのを覚えている。
施設に入った時には、もう息子である私の名前も知らないようだった。
父親が亡くなった時も、葬式には参列できない状態だった。
そして母が死んで、私は介護職の扉をたたいた。
そして、母親が入所した時の部屋に、今度は入所者の家族としてではなく、介護職員として部屋に入り、天竜川を望んだ。
B型鉄橋が半場の村が奇麗に見えた。
 
さて本題の、この本は、実に現場の事をよく書いている。
利用者の事、介護職員の序列関係、読んでいて納得することばかりであった。
よくぞここまで書いてくれてと、アッパレをあげたい。
是非買って読んでもらいたい本だと思った。
(私はメルカリで中古を買った)
老人の介護の現場について、様々なことを経験して、最後に著者は
あと数年で私も高齢者になる。これまで情けなく反省の多い人生だった。それでも私はいささかも後悔はしていない
と書いてあった。それは「その時々を必死に生きてきたからだ」とも書いている。
そして、介護職を続けていくと締めくくっている

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山間の集落、八百万町隼地区の消防団
ハヤブサ消防団
お話し
その地区は
その集落は、過疎対策として観光客の集客を取り込む為に様々なことを考える。
ツチノコ探しだったり。
消防団も、そのイベントに協力、そんなことから様々な事がおこってくる。
過疎高齢化だった地域は、若い人が集まり賑やかになっていく。
それはカルト集団だったりする。
地域を守る消防団のお話し。
だった(^O^)/

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重松清さんの本は「エイジ」「ビタミンF」「ひこばえ」「ナイフ」と読んだ。
今度は「くちぶえ番長」
悲しい現実、悲しくて涙がでそうになったときは、口笛を吹く。
小学校4年、その学年の始めに女子の転校生が、その子が挨拶で「番長になる」と宣言、そこから物語は始まっていく。

番長とは、ケンカが強いだけではない。イジメを許さない。
いじめる側にも理由がある。が、その子は許さなかった。

その本は、過去を振り返る形で始まっている。そして、最後、再開することは無かった。
私にもある。
LINEだけで繋がっていて、同窓会の話をして、出会うことができないまま、遠くに行った人が。
別れには、様々なことがある、人の哀しい気持ちを、自分なりに考える。
「くちぶえ番長」
読んでよかった。

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去年は、平岡エイドでのボランティアだった。今年は走ってここまで来た。
エイドで大変お世話になっている近藤さんに挨拶をした。
多くのランナーがいた、顔見知りの人も多くいた。
ボランティアスタッフにカレーヌードルと小粥を貰った。
約半分の距離を走ってきたことになる。まだこれからが大変だと思う。だから、ココで英気を養う。
そこにウッチャンと智さんがいた。お互い疲労困憊のようだった。
「私たちは、ココから電車に乗る」
というので、私も初めから乗るつもりだったと言った。
私と智さんは大嵐駅で下りた。二人は一気にトップ集団に追いついた(笑い)
静かな富山村の村内を歩き、お決まりのように信号機の歩行者ボタンを押した。
レストラン「栃の木」の前の公園でエイドがあった。
水分を補給して食べ物を頂いた。
こらからの21k、店は無い。自動販売機もない。ただただ佐久間ダム湖湖岸を南に下るだけだ。
トンネルの数を数え、春の新緑を目に進む。釣り人だろうか、釣り竿を持った人がいる。オートバイで走って来る人がいる。そこに近所の人が車で通り過ぎた。私の腰に激痛が走り始めた頃だ。
その車の帰り、その人が
「車に乗っていかないか」
と言われた。よほど情けない歩き方だと思ったのだろう。
私は断った。アリガトウと言って、断った。
最後のトンネル「ウナギだる隧道」このマラニックの名物トンネルだ。
そのトンネルは曲がりくねっている。だからウナギだるというのか?
そのトンネルは、昔オバケがでると言われていた。夜には子どもの声が聞こえると言っていた。佐久間ダムができた70年前、様々なことがあった。佐久間ダムの工事では犠牲者が96名だという。
今は労働基準が設けられ、安全な作業が求められている。
ウナギだる隧道を抜けると静岡県浜松市。
そこには萩田エイドがあった。
智さんも居た。
残りの三つのトンネルを抜け、旧佐久間町の火葬場下の脇道からショートカット、昔の佐久間ダムへ行く遊歩道を佐久間町中部(なかべ)商店街に下る。佐久間病院の横から中部(なかっぺ)橋を渡り半場(はんば)にいく。中部天竜駅横を通って、浜松市市営駐車場にある自分の車を横目に進み、佐久間小学校横を歩き、飯田線の鉄橋横の遊歩道を歩きコープ佐久間店に出る。
ココのコースは、天竜川リバーサイドに参加する人は、コースマップをヨーっく見てほしい。こんな感じになっている。
国道沿いのコースだと、狭いトンネルを通ることになっている。そこを、吊り橋を渡り、飯田線沿いに歩くようにしたらとの提案です。
佐久間の人は田舎だから車が移動の手段だ。だから、その狭いトンネルは通ってほしくないと思っています。
コープ佐久間店に着き、お決まりの缶ビールにおつまみ(卵焼き)ホッと一息。
ある人が「この時間なら歩いても行ける」と。そうか~と自分は考えた。でも「歩いても行ける」歩く速度は人それぞれ違う。と、その後ズーット思っていた。
智さんと一緒に歩いたけど、その智さんが離れていく。
秋葉ダムの湖岸、秋葉ダム桜マラソンの一㌔ごとの表示を数えて秋葉ダムのエイドを目指した。
眠くて、腰が痛くて、身体も傾きだした。ようやくついた秋葉ダムエイドでノリちゃんがウドンを作ってくれた。
缶ビールもあった。そこで持ってきたカッパとダウンを着て駐車場で横になた。空には満天の星が輝いていた。
ノリちゃんの車でショートカットしようかな~と私の中の悪魔の声が聞こえる。眠れなく目だけつぶっていた、スーッと記憶ななくなりすぐ起きて、リックをかついで
「ありがとうございました」とノリちゃんに挨拶をして歩きだした。初めは何とか歩ける。秋葉ダムの堰堤、そこを過ぎてからの坂道が大変だった。秋葉トンネルを抜け、横山あたりの街灯の下で横になった。一度横になると立つのだ大変、手で持っていたコップを支えにして起き上がる。そして進む、エイドを撤収したノリちゃんが来た「大丈夫ですか~」私は
「大丈夫ではないです車に乗せてください」
とヘルプした。
多くのランナーの背中のライトが輝いている。その一人ひとりにノリちゃんは声をかけている。道の駅「花桃の里」にてボランティアのエイド車がいた「車の中で2人寝ています」と言っていた。
私のワープは二俣駅前のコンビニまでお願いした。
5月5日1時30分
そこのコンビニで焼き肉弁当を、そこの駐車場で食べた。
そこに、ランナーの忘れ物でなないかと思える。手袋とジャージがあった。
どうしたものかと考え、萩田さんに電話を掛けた。自分で判断して処理してください、とのこと。
私はコンビニの人に断り、レジ袋を買って、そのジャージと手袋をリックに詰めた。
歩いて天竜川河川敷に降りるところまで行き、そこのバス乗り場で寝た。横になった。朝4時起きて河川敷を河口に向かって進んだ。
最初の橋「第2東名」そこにエイドの人がいた。次の橋「浜北大橋」そこにもエイドがあった。その人は大工の人で、水窪や佐久間の人を知っている、と言っていた。
次は「かささぎ大橋」「東名高速の橋」と続く。
「国道1号線の橋」の下にもエイドがあった。太陽の日の光を遮るものが何もない河川敷のコース、橋はその光を遮る良い場所だと思った。
次の「東海道線の橋」その橋の下で寝そべった。列車が通る音で起きて歩いた。
次の「新幹線の橋」の下で横になる。新幹線の音は凄まじい。遠く何か音がしてきたと思うと、その音がとんでもない音になる。疲れた身体を無理やり起こされて、ダンスをさせられる、そんな感じだった。
そこから「掛塚橋」までが長かった。もう日陰を求めて寝ることもできない、そこらへんでゴロンと横になる。そんなとき、だれかの話声が。
「オジサン、そんなとこに寝ると良くないよ、あの木の下がイイ」と私を起こしてくれた。
「アリガトウ」と言って起き上がった。そして進もうとした。
犬を連れた青年と、その子どもだろうか、二人が歩いて土手を登って行った。
私は職を失って路上生活を余儀なくされたホームレスの人の気持ちが少し分ったような気がする。
5月の連休の昼下がり、そこの天竜川河川敷の公園には様々な人が居た。サイクリングロードを颯爽に走っている集団、ママチャリで走っている外国人労働者たち。ある高齢のランナーが私に話しかけてきた。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
その人も走っていて、最近袋井マラソンを走った。と言っていた。
225㎞ですか~っと。
その人は、70歳代で走るようになり、いま80歳と言っていた。
そのときエイドがあり、あんなことしてもらったら嬉しいと言って、私はエイドに行った。そこにはスイカがありパインがありメロンがあった。疲労困憊の身体にしみわたった。
そのとき、その80歳の男性のことを思い出し振り向いたが、そこには誰もいなかった。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
2023年5月3日私は諏訪湖から走り始めた。そして5日の昼間、天竜川河川敷を河口を目指して進んでいる。
思い返すと、様々な人に助けられている。最初はアメをくれたオバちゃんから始まった。
やっと近づいた「掛塚橋」そこにもエイドがあった。そこでコーラを飲んでいく時に、12時のサイレンが鳴った。制限時間、私の天竜川リバーサイド2023は終わった。
そこからゴール地点の竜洋海浜公園まで3k
最後の遠州大橋まで河川敷の地獄は続く。
遠州大橋をくぐって、堤防の道路を歩いていると、黒い車が乗っていきませんか?と。
相当、危ない走りだったようだ。それでも最後は自分なりに締めくくりたいと、その誘いを断って進んだ。
最後の最後、竜洋海浜公園の中で道を聞き、川を上流に行くといわれ行くと、それが遠い。振り返ると川を渡る歩道の橋があるではないか。戻り駐車場からその橋に向かっていると、ある人が私を呼ぶ声が。
セっちゃんがいた。
LINEで、そんな話をしていたっけ、根性出して走る。そう思ったけどボロボロでした。
萩田マラニックで嬉しいのは最後の温泉と宴会、時間外なのでゴールのオモテナシは無かったけど、お風呂に入れるのは嬉しい。
もっと
最後の最後、嬉しいことが。
平岡駅からの飯田線で知り合った方が、お風呂で私の激痛が走った腰にテーピングをしてくれた。こと。
お蔭で腰は、そんなに痛くないです。
また、竜洋海浜公園から豊岡駅まで帰るとき、タクシーの便乗どうなるのかと心配していたら智さんにヒロ子ちゃんの車に誘われたこと。
2023年5月3日はこんな人でした。
2日間の天竜川リバーサイドで私は多くの人に出会い、そして喜び苦しみを感じました。
出口浩明さん(ライフネット生命創立者)
その人の本で「人生は喜怒哀楽の総重量である」と書いてあります。
何事も表もあれば裏もある。良いこともあるが大変なこともある。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
80歳の男性も、ランナーだから。私に、このような声をかけたのだと思う。
天竜川リバーサイド
主催の萩田さん、ボランティアをしてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
来年は、もう少しましになるよう精進します。
それでは、また(^O^)/

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 佐久間でボラ
 早稲田から迂回路の新野峠から富山村・佐久間ダム・佐久間駅で仮眠、西渡(にじど)からバスで西鹿島、天竜川河川敷を走り時間外ゴール。
 平阿岡駅から大嵐駅まで飯田線、あとはワープ無、完走。
体調不良のため、富山村からの参加
2020年2021年2022年
平岡で近藤さんたちとボラんチェア
このときはブログは書いていない。
この三年間、色々なことがあった。考えた。
そして
2023年は、参加しようと決めた。
飯田線「中部天竜駅」始発の電車に乗って岡谷駅を目指した。
岡谷駅に着いて、諏訪湖まで歩いていく、走り始めたランナーに出会う。
諏訪湖に着いて受付を澄まし着換え萩田さんにスタートラインい連れていかれ写真を撮ってもらう。
諏訪湖・釜口水門スタートは5月3日12時30分だった。
道に迷うのは最大の時間ロスになる、道を知ってそうな人を見付け、その人に着いていこうと思った。
だけど、走力が無いので、途中から着いていけなくなる。
そんなことの繰り返し。
オバちゃんの応援の人がいる、まだ長い道のりアメを食べてけ、と差し出される。
40k過ぎから知り合いの姿が見えてくる。早い人だけど様々寄り道をしてきたみたいだ。
ある人は、応援のオジちゃんに
「走る人を見るとウキウキする、家によってビール飲んでけ」
そう言われて、一杯飲んできた。
そんな人がいた。
田村のコンビニには一緒に走っていた名古屋の人とよって夕食をとっていた。
そこに、岡ちゃんと及川さんがきて、一緒になった。
岡ちゃんが缶ビールを、美味しそうに飲んでいた。
私は我慢した。
及川さんに着いて、そこから走り始めた。行けるところまで行こう。
もしかしたら、ウッチャン智さんに追いつくことができるかも知れない。
天竜峡の道の間違えやすいところ、及川さんの後ろ姿を見失わないように走った。
80k坂道、智さんがいた。
眠そうだった。
さくら街道でエイド、なんと本物のビール。エビスとスーパードライがあった。
私はスーパードライを選んだ。食べ物は甘いものばかり。ツマミにならないな~。と思っていたら。
マミちゃんが「ポテトがあるよ」と教えてくれた。その手には缶ビールがあった。
5月といえども信州の夜は寒い。缶ビールも冷えていて美味しかった。
岡ちゃんのビールを美味しそうに飲んでいる姿を思い出した。
82kを走ってからのビールは美味い。
後100k以上ある道程だけど、今を楽しもう。
酔いと疲れでフラフラ天竜峡を歩いた。
先に行く見知らる人と話しながら。
151号線に入り、前を見ると智さんが。どうも近道があるらしい。智さんを追った。やはり眠そうだった。
コンビニでウッチャンがトイレによるという。智さんは先を急いだ。
ウッチャンが出てくるのを待って月夜の夜の国道をユックリ走った。智さんに追いついた。
真美ちゃんが走ってきた。私はマミちゃんの後ろに着いた。
私はコンビニにより、真美ちゃんは先を急いだ。
次のコンビニまで1,5k割と近くにコンビニが。
それからは、まあ近くだろうと勝手に思い込んでいた。それが10kの道程だった。
90k~100k
100kのコンビニでボトル二本とパンを二個買った。
一個は食べながら歩き、もう一個はリックに入れた。
早稲田の交差点を下るとき、阿南町の高台から天竜川の朝もやが見える。牧歌的な風景が美しく感じた。
阿南高校を左に見て、私たちランナーは天竜川の畔を走る県道1号線を下った。

ココの道は、思い出深い道だ。天龍村でやっている「天竜梅花駅伝」のコースなのだ。
私は、阿南高校から平岡ダムまでのコースを走ったことがある。あんな感じで走れたならば、と昔を思い返した。
それが今は平岡駅までがムチャクチャ遠くに感じている。
そんな平岡ダムを通り過ぎ、平岡エイドを目指して一歩一歩進んだ。
平岡エイドに着いたのは7時20分だった。

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この会は
県民に骨髄移植に対する理解の促進と骨髄提供登録者(ドナー)拡大を目的とする。

この会の事業は
(1)
日本骨髄バンク、日本赤十字社、地方自治体が行う骨髄バンク事業の普及啓発、広報宣伝活動並びに骨髄提供者の募集業務に対する支援協力
(2)
機関紙、広報誌、パンフレット等の発行、送配布、並びに学習会開催及び参加その他の方法による普及啓発、広報宣伝活動
(3)
ドナー、患者及びその家族に対する支援活動
(4)
医療、検査機関及び患者負担金の軽減、医療保険の充実を求める活動
(5)
その他本会の目的達成のために必要な活動
このような会則がある。
私は、この活動を、走る仲間が白血病になり、ネットで「白血病」と検索しているとき出会った。
もう10年以上も前の話になる。
ドナー登録できないと知った私はマラソン大会で骨髄バンクのタスキを掛けて走る啓発活動をすることになった。
当時沿道の応援している人の中には、タスキを見て骨髄の「髄」の字が分からない人が居た。
また、「骨髄バンク」を分からない知らない人も居た。
それが、五年十年たつと、そのタスキを見て声をかけてくれる人が多くなったように感じた。
先月ドナー登録をしてきたという人
去年、その移植をやったという居酒屋のTシャツを着た人
そんな人との少しの会話が、フルマラソンの42.195㎞という長い道の思い出の中にある。
今回議題に上がった、大きなこと
それは
骨髄バンクの登録者を、如何に増やせるかということ。
それは
医療現場から、患者様を見ている立場の人からの声
また
今まで、会として、多くの学校や施設を廻って感じた元会長の声
「命のバトン」それは重すぎるような気がする、と。
日本赤十字社の人からパンフレットが配られてきた
骨髄バンクに協力してください。
チャンス
ドナー登録のしおり
頁を一枚開くと
「生きるチャンスを善意によって広げていく」
毎年数万人が白血病などの重い病気と診断され、そのうち約2000人の方が骨髄バンクドナーからの移植を望んでいます。
移植には患者とドナーの白血球の型が適合することが必要ですが、その確率は数百から数万分の一。
たとえ適合しても、ドナーの都合や健康条件が整わなければ提供できまっせん。
移植を待つ患者さんのうち、実際に移植を受けられるの人は、半数程度にとどまっているのが実情です。
ぜひ、あなたのご協力をお願いします。
※ドナー登録者の方々はどのような強制もされませんし、必要な情報はすべて提供されます。
※骨髄バンク事業では、ドナーの健康と安全が優先されます。

そのパンフレットの表紙に
赤い服の女の子と青い服の男の子のイラストがある。
青い服の男の子は白い鳥を抱えている。
みんな生きている。
過去があり今がある。
未来はどうなるのか?
支えある世界、
今回の会合に集まった人たちは、そのように未来を願っている人たちだと思う。

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WBC栗山監督の本
「栗の樹ファーム物語」
栗山英樹、野球場をつくる
を、読んだ。
1999年
栗山さんと栗山町との出会い、それは北海道栗山町のJCからの電話からだった。
2002年
栗山町に行き栗山町の人々に出会い、何かを感じ、栗山町に家を建てる。栗山町の人たちと栗の木ファームを完成する。
2004年
この年の北海道日本ハムファイターズは、メイン本拠地が東京都から札幌市に移った。
2012年
北海道日本ハムファイターズ_の監督になる。
栗山町の家から球場に通う
この本の前に「覚悟」も読んだ、大谷翔平との出会い。ダルビッシュ有との出会い。その中に栗山町の人々との出会いも。栗山監督の人柄がわかる。
映画「フィールド・オブ・ドリームス」
現役を退くころ、この映画をみたという。野球解説者になり、JCからの電話で栗山町に通うようになり。夢だった野球場をつくった。それも、この映画をみたときからの夢だったという。
その映画を知らなかった私は、TSUTAYAで借りて来て、その映画を観た。
12市町村が合併してできた新浜松市、そこにそこの隅っこに多くの人が走ったり歩いたりして訪ねてくる里になってほしいと、そんな想いを信じて続けてきた。
夢は正夢
その夢を叶えるためには、叶えるまで、続けること。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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